創設者・青柳修三郎博士の紹介

青柳修三郎博士(1855-1932)は、明治時代末期の教育改革者として知られる人物です。貧しい農家に生まれながら、独学と奨学金で欧州の名門大学に留学。英国やドイツで教育哲学と寄宿学校制度を学び、帰国後、日本の近代化の中で若者たちが伝統的精神を失いつつある現状を憂いました。博士は「自然の厳しさの中で心身を修め、真の知性を養う」場を求め、1910年に蒼嶺学園大学を設立しました。

「蒼嶺の精神」を打ち出した経緯

「蒼嶺の精神」は、博士が大学設立時に自らの教育理念として打ち出したものです。その経緯は、博士の個人的体験と時代背景に深く根ざしています。

  • 留学時代の気づき:欧州留学中、博士は英国の伝統校で制服と厳格な寄宿生活が学生の規律と集中力を育むのを目の当たりにしました。しかし、当時の日本は西洋化の波に飲み込まれ、若者たちの心が乱れ、伝統的な修養精神が薄れていくのを痛感。帰国後、博士は「日本独自の自然環境を活かした教育が必要」と考えました。
  • 設立地の選択と自然の影響:博士は故郷に近い山梨県の高原地帯を選びました。この地は、青くそびえる山嶺(蒼嶺)と厳しい冬の気候が特徴で、博士自身が幼少期に山で過ごした経験から、「自然の厳しさが人間を清らかに強くする」と信じていました。設立準備中、博士は雪深い山道を歩きながら、「蒼嶺のように清らかで、風雪に耐え抜く精神」を大学の魂として定めました。
  • 理念の公表:1910年の大学開学式で、博士は「蒼嶺の精神」を初めて公表。講堂に集まった初代学生たちに、「清らかさ(心身の浄化)、強靭さ(逆境耐性)、平等(性別・出自を超えた競争)、修養(学問と身体の調和)」の4つを柱として語りました。これは、博士の自伝的著作『山嶺の修養』に詳述されており、当時の社会問題(急速な都市化による精神の荒廃)に対する博士の回答でした。

この精神は、設立以来の大学憲章に記され、制服着用、体育必修、全寮制、体罰規程などのルールに反映されています。博士は晩年、「蒼嶺の精神は、学生一人ひとりが山のように不動の強さを身につけるための道しるべ」と記しています。

「蒼嶺の精神」の意義

「蒼嶺の精神」は、単なるスローガンではなく、本学の教育の核心です。

  • 清らかさ:外部の誘惑から離れ、心身を純粋に保つ。
  • 強靭さ:厳しい自然と規律で、逆境に負けない力を養う。
  • 平等:男女共通の制服や全寮制で、努力のみを評価。
  • 修養:学問・身体・精神のバランスを重視し、生涯の基盤を築く。

この精神は、現代の学生にも受け継がれ、卒業生が社会で活躍する原動力となっています。博士の遺志を胸に、本学はこれからも「蒼嶺の精神」を守り続けます。

── 蒼嶺学園大学 広報課